映画『Trainspotting』の原作者でもある小説家Irvine WelshによるNew Orderへの寄稿文が公開

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Pin on PinterestShare on TumblrEmail this to someoneBuffer this pagePrint this pageShare on VKShare on RedditFlattr the authorDigg thisShare on LinkedInShare on YummlyShare on StumbleUpon

映画『Trainspotting』の原作者でもある小説家Irvine WelshによるNew Orderへの寄稿文が公開された。
これは先日こちらの記事で紹介したNew Orderの新作『Music Complete』のリリースを記念した作品展サイト『Singularity』 (http://singularity-neworder.com/) の第2弾として公開された文で、『Music Complete』の日本盤をリリースした〈Traffic〉から早くも日本語訳が到着している。サイト『Singularity』では、今後も様々なアーティストが提供した作品が公開される予定だ。

アーヴィン・ウェルシュが語るニュー・オーダー(プレス・リリースより引用)

音楽について書くのは嫌いだ。ある曲ないしバンドが好きか好きじゃないかのどちらかしかない。ただ、なぜ好きなのか自分にもわからないからこそ、あるグループが自分の「時間軸」にどれだけ重要な存在かなどとどうでもいい個人的な戯言を並べ立ててしまう。なぜなら今の時代我々は異常なまでに自分の人生を語りたがる傾向にあるのだから。

ということで、書くとしよう。

私くらい年季の入ったニュー・オーダー・ファンともなると、類いに漏れずジョイ・ディヴィジョンの熱狂的ファンだったことが彼らと出会うきっかけだった。多くの人たちがそうであったように、私にとっても悩む必要のない継承だった。同じ才能に溢れた人たちが変わらず最高の音楽を作っていたことに加え、彼ら同様、私自身も悲運に見舞われた時期から立ち直り、もう少し明るい方向へと進もうとしていた時期でもあったからだ。(結果的にはその後も悲運は続くことにはなるのだが)

ニュー・オーダーほど成功したグループをイアン・カーティスとロブ・グレットン(*ジョイ・ディヴィジョンとニュー・オーダーのマネージャー)の悲劇で定義しようとするのは怠慢であり、非常に馬鹿げているとさえ言える。とりわけバンド・メンバーは全員、明らかに人生を謳歌しているのだから。ただ二人を失ったことは無視できないことでもあった。カーティスの死によって、バンドは無邪気にポスト・パンク・ミュージックを作っていたイギリス北西部の若者から、いきなり最も劇的で痛ましい形で世間の目に曝されながら成長を余儀なくされたのだ。

端からすると、有名な若者の死は往々にして想像を超える悲劇と実体のないロマンを引き起こす。特に後者はスター故の偶像化によってさらに増幅される。しかしながら、歳をとるにつれ、そこに潜む本当の恐怖は実は鬱病が如何に蔓延し、どれだけ破滅的になり得るかということなのだとわかる。イアンの場合、それに輪をかけててんかんの発症の恐怖も重なった。グループとして、若い仲間達は否応無く実存的問題と実務的課題に直面したのだ。「何が起きたんだ?」「我々はどうすればいいのだ?」「このまま続けるべきか?」まだ若いにも関わらず、彼ら全員、素晴らしい礼儀正しさと品格でもってそれと向き合った。

荒涼としたサウンドから少し離れることでニュー・オーダーはジョイ・ディヴィジョンの功績を踏み台にする欲求から脱却した。ファクトリー・レコードを象徴するミニマルなアートワークをあしらったバンドのデビュー作『ムーヴメント』を前身バンドのファン達はある種の不安を抱きながら待ち望んだ。恥ずかしながら、私は当時アルバムを聞かずに否定したのを記憶している。単に、仲の良かった友人が自分よりも先にアルバムを手に入れた、という理由だけで。傲慢な若い無骨者がすることに他ならない。そこで一緒に称賛してしまっていたら、『トレインスポッティング』のレントンとシック・ボーイの友情を描くヒントとなった友人との「負けてたまるか」という関係性を軟化させてしまったことだろう。だから私は『権力の美学』が出るまで待ち、ようやくその友人に「このアルバムでバンドはいよいよ自分たちの本領を発揮した」と言うことができたのだ。『権力の美学』は私にとって今でも生涯最も好きなアルバムの一枚だ。

そんなわけでニュー・オーダーは私の人生を彩る音楽を提供してくれた欠かせない存在となった。ニュー・オーダーの最重要時期を抜き出すのは難しい。あまりに長期に渡り活躍している為、彼らを80年代、或は90年代ひいては21世紀といった特定の時代を象徴するバンドとして見られないのだ。一人一人は非常に真っ直ぐで親しみを感じるメンバー達だが、ニュー・オーダーという集合体になると、不思議な神秘性が生まれ、音楽にはある種の謎めいた感覚が消えることなく常に浸透している。アップビートな曲でも常に不穏さが底に流れ、一方で暗めの曲は必ず破壊的な喜びを抱き合わせている。

また、アルバム楽曲の強さがことをさらに複雑にしている。大衆ウケするポップなヒット曲を輩出するバンドとして知られているものの、コア・ファンはシングルになっていない曲だけで『裏ベスト盤』を作るのは容易いものだと言うだろう。「ユア・サイレント・フェイス」はおそらく私が最も好きなニュー・オーダーの曲で、ダンスとロックンロールを融合させた神髄のような曲だ。催眠的でありながらメランコリックで、不穏でありながら高揚感もある。嘗て『トレインスポッティング』のサントラの収録曲について話し合った際、みんなそれぞれお気に入りのアーティストがいた中、唯一全員意見が一致したのがニュー・オーダーの曲は何があっても絶対に外せないということだった。当然、言うまでもなく、具体的にどの曲にするか決める段階になると意見が一致するにはほど遠かった。

このようにニュー・オーダーのサウンドは非常に多彩でありながら、紛れも無く彼らにしか出せない音なのである。それは印象的なメロディーと脈打つ怒れるベースラインの見事なぶつかり合いに負うところが大きい。最も興味深いのは、彼らがポップ・ソングにおける伝統的構造をなぞることなくやってきたことである。彼らのヒット曲の多くはバース〜サビ〜バースという典型を逸脱し、「エイジ・オブ・コンセント」や「ラン」に至ってはむしろクラシックの楽曲のような展開を見せる。

私のような熱狂的ファンにとって、ピーター・フックの脱退は敬愛する友人夫婦の泥沼離婚を見ているようだった。しかし、離婚がそうであるように、こういった離縁は関係している人たちにしかわからないことである。この件に関して、これまでそして今後どのような発言がなされようと、人と人の心が離れてしまうことが時にはあるという、これは悲しい現実なのだ。だからそっとして、ファンとして楽しめるアーティストが2組いることを喜ぶのが最善だろう。

その後もニュー・オーダーは生き残り、成長し続けた。それは何よりも彼らの天性の共演力の賜物だろう。バンドのメンバーは常にサイド・プロジェクトに対し積極的な姿勢を見せ、様々なアーティストと仕事をすることで成長を遂げた。数年前にダブリンで見たバッド・ルーテナントの素晴らしいライヴが心に残っていただけに、トム・チャップマンがニュー・オーダーに参加したことは驚くことではなかった。メンバー達は今も変わらず実におおらかで、無駄口を叩くことなく、マンチェスター人ならではの茶目っ気たっぷりのウィットに富み、見たところこれまで直面してきた数々の苦難にも動じていないようだ。

これまで偉大な功績を残し、今となってはそれをさらに新しい作品で増やすこともライヴで披露することも、自分たちの思うようにすればいい。ニュー・オーダーのライヴに行くことは、過去数十年の英国カルチャーの歴史を見ているかのようであり、同時にこれまで彼らがどれだけ多くののヒット曲と素晴らしい楽曲を生み出してきたかということに驚かされる。私はニュー・オーダーの音楽と共に踊り、どんちゃん騒ぎをし、女性を口説き、負けては勝ち、求婚し、結婚もした。彼らの元レーベル社長の偉大なトニー・ウィルソンにかわいがられ、バンドとも親交を深めることができた。

本音を言えば、こんなものは書きたくなかった。なぜなら本当に伝えたいこととかけ離れてしまうからだ。言いたいことはつまり、私はとにかくニュー・オーダーが好きでたまらない、ということだ。


 
Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Pin on PinterestShare on TumblrEmail this to someoneBuffer this pagePrint this pageShare on VKShare on RedditFlattr the authorDigg thisShare on LinkedInShare on YummlyShare on StumbleUpon